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中原佑介先生のこと [現代アート]

東北関東大震災のことが日常の大部分をしめている状況が続いています。
でも、書かなければならないことがあります。

今月、3月3日に逝去なさった中原佑介先生のことです。
長らく、中原先生は遠くから存在を眺めているだけの方でした。もちろん本は読んでいます。
アート業界では東野芳明先生、針生一郎先生と並び、誰が呼んだか存じませんが、三大美術評論
家と言われてきた方です。

 ところが、昨年、上海万博記念の版画制作のプロジェクトが立ち上がり、その日本側の委員として
中原先生と会議でお隣に座ることになりました。思いがけず、2010年だけで、数回、お会いし、その
中にはご一緒に上海へ行き、一緒に食事会をさせていただくことが出来ました。

素顔の中原先生は、いつもお洒落でダンディ、お酒をこよなく愛し、厳しい言葉の陰に、優しい言葉
も合わせて持っておられました。ユーモアをおっしゃるタイミングが絶妙で、ずいぶんと場を和ませて
いただきました。ご一緒出来てとても楽しかったです。

書かなければならないこと。それは先生とさしで話をした上海空港でのやりとりです。
昨年、2010年の9月21日、上海虹橋空港のビジネスクラスロビーでの約40分の会話です。
先生と二人、ビールを飲みながら、私はかねてからお聞きしたかったことを尋ねました。

それはもの派の成り立ちです。さらにもの派の言葉を言いだしたのは誰か、という疑問です。
その対話の中で、非常に興味深いことを先生は語ってくださりました。
例えば、斎藤義重さんと李禹煥さんとはほとんど接点がないこと。榎倉さんと李さんもほとんど
無関係でもの派はだいたいが多摩美の出身者でしめられることなど、でした。
最後に中原先生は「来年、グッゲンハイムで開催予定のアレキサンドラ・モンロー氏がキュレー
ションする展覧会で事実と違う「もの派」が作られてしまうのがとても心配だ」とおっしゃいま
した。そのために先生は「僕が書いておかないとねえ、、、」とおっしゃったのが印象的でした。

そのテキストを先生は書いたのだろうか、というのが私が今、とても気になっていることだ。

あの時、先生はすでにある程度、ご自分の病気や残された時間を知っておられ、そのことと、
ご自分が書きたいことが多すぎることと、ご自分の中で思いを巡らしておられるような雰囲気
だった。ちょうど機内へすすむように案内のアナウンスが始まると、先生は「いろいろ書かなく
ちゃいけないことが多いけど、やらなくちゃね」とおっしゃって、「なかなか面白い質問だったよ」と
笑ってくださいました。

その後も、上海万博記念版画制作プロジェクトの日本での記者会見の時に、お会いした
のが最後だったと思う。

私自身もアートについて書く仕事の末席にいる。書かなければならない、という強い信念を持つ
のは、その現場を見ている人間だからだ。またその現場に自分しかいなかったとしたら、目撃
した貴重なアートの現場は書き遺すことが大事だと思う。私も取材というよりは、アーティストに
会うために現場に行き、思いがけない場面や貴重な言葉を聞くことがある。そのことを、自分は
書き遺さねばならない。書き遺さなければ、そので起こったこと、あった事実が、なかったことに
なってしまう。今は動画もウェブもある。しかし、それを見た人間が書くという、シンプルだが、
その人間を通した客観的な感想は、長く他の人に印象を残すことがある。

私は地震のニュースを見ながらも、中原先生のこと、中原先生が昨年、なんどかお会いした間
に発した言葉を、いつか改めて書きたいと思う。いや、書かなければならないという気持ちが
している。親しい人に残した言葉があるだろうし、先生本人が残した言葉もある。
しかし、なにげない瞬間に、先生が無意識かもしれない時の言葉にこそ、もしかしたら先生
の本音があったのではないか、と思えるのだ。

中原先生、本当にお疲れさまでした。
いつか天国でお会いできたら、美味しいビールと紹興酒で乾杯しましょう。
ありがとうございました!
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